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鞆の浦1(対潮楼・架橋問題): 究建築研究室 Q-Labo.|https://q-labo.info/memo/000068.php
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鞆の浦1(対潮楼・架橋問題)

福禅寺・対潮楼、鞆町広島(2008)

2009/4/20〜4/26

4/23(木)〜25(土)
3日ほど休日をとって、連れ合いの実家の広島にチビを連れて行く。
道中、鞆の浦(とものうら)に一泊。古い街並みの残る町として建築の世界では昔から知られているが、最近は「ポニョ」や「架橋問題」(実は再燃)で、世間的にも注目が集まっているようだ。

上の写真は対潮楼
瀬戸内の絶景を切り取る豪快な開口部が魅力の建築。奈良の慈光院円通寺、栗林公園の掬月亭などに似ているけど、こちらは腰壁がついてるのと、庭が無い(つまり近景が無い)ので、額縁っぽさがより強い。景観そのものの迫力も群を抜いている。お見事(窓に近づくと、いろいろなものが見えちゃうんだけど)。
一方、この眺めに至るまでのアプローチには作為的演出がほとんどなく、ごく普通にこの窓にたどりついてしまう。その意味では、あまり「建築的」ではない。でもそのおかげか、部屋に座って落ち着いてると、円通寺のように「さあこの庭と対面しなさい。すごいでしょ」という(やや押しつけがましい)感じを受けない。絶景を、気楽に、眺めることができるのがとてもいい。

こういうガバーッと開いた開口部って、実は日本建築では全然珍しくない。壁一面を障子で開放できる建物は、もうたくさんある。軒先と縁側、柱で切り取られる、というピクチャレスクな構図も、日本の建築としてちゃんと作ってれば、当然そうなる(その当然が今ではなかなかできないんだけど)。
じゃあ、そんな中で上にあげたような建築がなぜ別格なのかと考えると、やっぱり、その開口部の外にある、庭を含む「景」の力が決定的なんだと思う(もちろん「景」と建物との関係のとり方も重要なんだけど。上に挙げたのは、そこらへん(開放の度合いとかアプローチ)が面白いのだ)。
日本の建築・空間にとって、外部との関係がいかに大切かということをあらためて考えてしまいました。

参考:奈良の慈光院(2005年)

以下ちょっと飛躍するんだけど、そういう観点からも、鞆の浦の湾を横断する「架橋」というのは、やはりやめた方がいいんじゃないかと。常夜灯のある観光特異点からの眺めだけでなく、鞆の浦全体からの眺めに影響を及ぼすわけで。京都なんかで、立派な借景のある庭が、マンションやペンシルビル、高架道路の建設でいかにスポイルされてきたことか。
政策的に言っても、60〜70年代にさんざ海岸の埋立や架橋をやって、日本各地にあった鞆の浦のような風景を無くしてきたのに。だからこそ今、鞆の浦の存在価値が相対的に高まっているというのに。
景観でメシは食えんという向きももちろんありましょう。単なる「観光地化」では、あの町の規模ではキツイでしょう(たぶんあまり宿泊しないから)。橋が架かる事によるメリットも(交通事情改善の他に)いろいろあることでしょう。でも他の土地にない極めて恵まれた「資源」を、使い道がまだ見出せないからといって、うっちゃってしまうのは、非常にもったいないように思うんだけどなあ。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 09.05.04 | (0)

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