究建築研究室 Q-Labo.
究建築研究室 Q-Archi. Labo.|京都の建築設計事務所

2010年07月: 究建築研究室 Q-Labo.|https://q-labo.info/2010/07/
Copyright © 柳沢究 Kiwamu YANAGISAWA, 2008-2024

ブダペストの彫刻 Little Princess:Budapest, Hungary, 1996

ブダペストの彫刻 Little Princess:Budapest, Hungary, 1996

ブダペストの線路沿いでたまたま出会った彫刻。
はじめ遠目に見て、本当に子供が柵に腰をかけているのかと思った。
街にある銅像とか彫刻って「どうだっ!」感があまり好きではないのだけど、こんな風に、街に融け込みつつさりげない違和感を発する佇まいはいいねえ。建築も同じだけど。

童話等(幸福な王子を一瞬思い浮かべた)からモチーフをとったのかと思ってたが、調べてみると、作者の娘がモデルとか。女の子とは気づかなかった。

>> 日本語での紹介

"Kiskiralylany Szobor" あるいは "Little Princess László Marton" などで調べると詳しい場所とかでてきます。

| MEMO 雑記・ブログ , PICTUREs 旅と建築 | 10.07.31 | (0)

ダラヴィという「スラム」

みんぱく行くといつもこれ。太陽の塔は後ろ姿がかわいい

7/18-20の三日間、国立民族学博物館にて行われた国際会議に出席する。
自分の英語のまずさを改めて自覚することとなり反省しきり。そんなわけで、会議に貢献できたかどうかは甚だ怪しいけれども、インドでもイギリスでもやられてないヴァーラーナシーに関する研究を、初めて英語で公表できたことはよかった。いくらかお褒めの言葉ももらったので、多少役に立ったと思うことにする。

会議の中で、デリー大学のR. Chatterjeeさんという社会学の先生の、ムンバイのスラムに関する論文にちょっと長いコメントをさせていただいた。内容は割愛するけど、僕はこの論文を読んで初めて「ダラヴィDharavi」という場所の存在を知った。

>> National Geographic:特集・スラムに流れ込む人々
>> National Geographic:ダラヴィ 都市の中の影[動画]

ダラヴィはムンバイにある巨大なスラムで、実は相当有名な場所であったらしい。面積・人口諸説あるが、こちらによれば面積223ha・推定人口70万とある。人口密度は実に31万人/km2!(これは京都にたとえれば、河原町−堀川/四条−今出川に囲まれたエリアに京都市の全人口約140万が住んでいる計算である)。
最近では「スラムドッグ$ミリオネア」の舞台として有名になったとか。

人口数十万を抱えるダラヴィは、インフラの整備こそ不足しているものの、いわゆる「貧民窟」としてのスラムとは若干異なったイメージのようだ。中には産業があり様々な施設があり、多数のコミュニティからなる独自の社会が形成されているという。住民の中には結構お金持ちの人だっていて、ムンバイの経済活動に少なくない貢献をしているのだという(ハーバード大による試算がある)。「スラム」というよりは「都市の中の都市」と呼びたくなる。
19世紀末、町外れの湿地帯に生まれたダラヴィは、いまではインドにおける経済発展の象徴・ムンバイの中心部に位置することになり、あちこちからの熱い注目を集めているのだ。

(ムンバイでは1千数百万の都市人口の半数がスラムに住んでいるという。驚くべき数字であるが、これはムンバイが特殊なわけではない。国連人間居住計画(UN-HABITAT Annual Report 2009)によれば、南アジアでは都市人口の43%がスラム居住者であり、全世界で見ても人口の1/6(11.5億人)がスラムに住んでいるという。しかもこのままだと30年後には20億に達すると危ぶまれている。日本にいては想像もしがたいけれど、スラム問題はきわめて今日的で切実なテーマなのである。)

Chatterjee先生いわく「建築をやっているなら是非ダラヴィを見に来なさい。ダラヴィは自然発生したヴァナキュラー建築の宝庫。外国人が一人で行って危なくないかって?ぜんっぜん大丈夫!あそこはコスモポリタンの世界だから」。

次にインド行くときは訪問してみようかなあ。


おまけ:

国際会議中の昼食に、出張で来ていたインド料理店のポータブル・タンドール

閉鎖したエキスポランドは、いまこんなことに。コピーが秀逸。
今こそ、農と言える日本へ。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ , SELECTED 選り抜き | 10.07.27 | (0)

初めての山鉾巡行

新町四条にて月鉾(?)

今年の祇園祭は、宵々々々山から宵山までずっと雨だったが、巡行の日の朝に梅雨が明けた。
ようやく晴れたので嬉しくなり、京都に住んで16年にして、初めての山鉾巡行見物に行ってきた。ものすごい人混みを覚悟していたが、宵山等の夜に比べるとずっと人出が少ない。こんな間近で見られるとは知らなんだ。

船鉾。家形・箱形の山鉾が主流の中で、船形を選んだセンスがすてきだ。
鉾への乗り込み口は、まさにタラップの風情。

屋台とビールが無いのが致命的ではあるが、山鉾を飾る刺繍や織物を明るい中で見られるのは、昼間のよさだ。
巡行の日以外は装飾を外している山鉾も多いらしい。巡行中は近くに寄れないので、本番向けのフルスペック山鉾をじっくり見られる時間は、実は短いよう。巡行を終えて自分のホーム町に帰ってきてから、解体されてしまうまでの数十分が狙い目だ(初めてのクセに偉そうですが)。

山鉾に釘を使わないのは、組立/解体を繰り返す中で、釘よりも柔らかい木材が痛むことを避けるためだろう。その点、縄は木よりも柔らかいし、力がかかった場合も、縄が伸びたり切れることでエネルギーを逃がし、本体への負担を少なくするのだと想像される。
この縄仕事(「縄絡み」というらしい)には、単体の強度が足りなけりゃ数を増やせばよい、という素朴な思考がみなぎっていて、それがデザイン的な面白さにつながっている。結び方の一つ一つは、たぶんそれほど合理的なものではないと思う。が、それでいいんじゃないか。「最適化」ではなく、ルーズさを含む「適当化」の方が、おそらく人にもやさしい。

しかし縄の使用については、なんといっても縄は米の副産物であり、米を神聖視する日本文化において特別な存在であるという、文時代以来続く文化史的背景が大きいだろう(注連縄を想起せよ)。
祇園祭は疫病除けが起源というが、そこに豊作祈念が含まれていないはずはなく、また近世町衆の祭としても、町衆の経済基盤は一次生産物の米にあったわけだから、ここで縄を使わずにどうするという話だろう。

たぶん辻回しの時に車輪下に差し込む道具(名前不明)

左:山についている松も解体されていた。
右:帰りにポチテック戸田さん「関西の手仕事」+4展にお邪魔する。こないだテレビでやってた子供イスがあった。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 10.07.22 | (0)

鴨川の増水

増水する鴨川(五条大橋)

すっかり梅雨もあけて夏だけれど、宵々々山(14日)の雨はすごかった。
鴨川はこれまで見たことがないほどに増水し、川沿いの遊歩道を完全に水没させ、橋の下のハウス群を文字通り洗いざらいに押し流したようだ(ブルーシートにくるまった段ボールハウスがどんぶらこと流れていく瞬間を、一回だけ目撃した)。
twitterでは写真付き実況がとびかっていたらしい(すごい時代だ)。
>> 鴨川写真集

もうすぐで溢れそうな鴨川を眺めながら、川ってのは憩いの場とか交通のルートであるとかの以前に、都市にとっては不可欠な排水路なんだなぁ、という当たり前のことをしみじみと思っていました。
幸い今回は川が氾濫するに至らなかったけれど、川に許容量以上の水が流れ込めば、つまった便器から水が溢れるように、当然溢れるしかないわけで、その状況を想像しながら治水(pdf)の大切さを少し実感した雨でした。

うちの事務所からみた鴨川:平常時(7/21昼)と増水時(7/14朝)の比較

水位の上がり幅は2m程度だろうか。とはいえ、町と川の感覚的な距離はこの数字以上にぐぐっと近づいている。気持ちとしては、知り合いから恋人未満くらいには縮まっている。

そういえば、上の写真下の方に移っている公園下の擁壁には、高瀬川への古い取水口の痕跡が残っているのだが、その位置は、現在の鴨川の水面よりもかなり高い。道路のある地面のすぐ下だ(写真下:水門の石が擁壁に埋まっているのが確認できる。点線が推測される開口。詳しくは石田孝喜『京都高瀬川:角倉了以・素庵の遺産』参照のこと)。

鴨川の河床は、昭和10年の大水害後の河川改修で2m近く掘り下げられ、現在の高さになったというから、この取水口はそれ以前の水位にあわせて設置されていたのだろう。
初めてこれを見た時、昔の鴨川の水面がえらく上にあったことに驚いた。あまりに上なので、ほんま取水口だったんか?と疑ったくらいだ。でも、現在の遊歩道を流れるみそそぎ川の高さが改修以前の鴨川の高さだそうなので、そうなのだろう。
鴨川と町との距離が、いかに近かったかということに想像をめぐらせた。おそらく当時の町と川の距離は、現在の遊歩道と川くらいには近かった。

たとえば、丸太町付近の鴨川沿いにある頼山陽の山紫水明処は、とってもいい建築なんだけど、これが建てられた当時の鴨川(の一部)が、縁側の直下を流れていたという事実を知らないと、その魅力の何分の一かを味わい損なうだろう。
また現在の「河原町」からは想像もできない、処刑場であり悪所であった「河原」の怖さも。


(山紫水明処から鴨川方向を見る。昔は生け垣がなくすぐ川だったという)

というようなことはたぶん他にもいろいろあるはずで、川との距離感は、京都という都市の歴史、特にその空間的側面を考えるときに、かなり重要な問題と思われる。川は今もすぐそこを流れているため、つい現在の感覚で想像してしまいやすいだけに。

今回の増水での水位上昇は目測およそ2m(五条あたり)、昭和の河床掘り下げも2m。
というわけで、今回の大雨では、水量は別としても水面の高さについては、昭和初期の河川改修以前の鴨川が再現された、と言ってよいのだった。
(この上に大雨がふったら・・・)

Tags: | MEMO 雑記・ブログ , SELECTED 選り抜き | 10.07.21 | (0)