オール電化雑感 その2〜4
「オール電化雑感」の続きをまとめて載せてしまいます。
「その1」をアップした時に全部用意してあったものの、その後、大震災とまだ進行中の原発事故、計画停電などが起こり、続きを載せるのをためらっていました。
内容に問題があるとは思わないけれど、多くの人々が必死で最悪の事態を食い止めようとしているこの最中に、原子力や電力利用についての批判的な(という程大げさでもないんだけど)事をあえて載せたくない、そんな尻馬には乗りたくない、と思ったのでした。
とはいえ、おそらく半年一年後には電力や原子力に関する世論は驚くくらい転換していると思われる(まだ緊急事態を脱していないので控え目だけれど、そう期待したい)。その前に、震災以前のやや脳天気なテキストを残しておくのもちょっとは意味があるかと思い、載せることにした次第です。原発を横目に気にしつつも声もあげず手も動かさず日常的に電力をじゃぶじゃぶ使っていた僕のような人間にも、この事態に対する責任の一端はあるのですし。
以下、「オール電化雑感」のその2〜4です。
原子力に対する立場を鮮明にすることを避け、「効率」の話にしようとしているところが、今から読み返すとこざかしい・・。
「オール電化雑感」 (執筆11/02/23)
その1 オールモスト電化
その2 電気→熱はもったいない
その3 オール電化は政治的判断
その4 エネルギー一元化ということ
その2 ■〈電気→熱〉はもったいない
「その1」の最後に、「オール電化の是非とは、狭くは電気を熱源としても利用することの是非であり、またより広くは家庭内のエネルギーを電気に一本化することの是非を考えること」と書きましたが、まずは、電気を熱源としても利用することについて。
ずっと気になっていたのは、電気を「熱」として利用することへの違和感だ。
せっかくいろいろ使える便利な電気エネルギーを、もっとも単純な熱エネルギーに変換して使うのはもったいないということである。
電源別発電電力量は以下のとおりである。
2009年では、原子力29%/化石燃料61%(石油7%、石炭25%、天然ガス29%)/水力9%/その他1%。
意外に石油が少ないことに驚いた。
水力とその他(太陽光や地熱とか)を除けば、いずれも原料から熱エネルギーを取り出して、蒸気の運動エネルギーを経て、電気エネルギーに変換する発電方式である。
つまり家庭で電気を「熱」として使用する場合、以下のステップを踏んでいることになる。
(1) 原料(石油とか) → (2) 熱エネルギー(火とか) → (3) 運動エネルギー(蒸気) → (4) 電気エネルギー → (5) 熱エネルギー(電気ヒーターとか)
従来の電気の暖房(電気ヒーターや電気床暖房)が灯油やガスの暖房に比べて割高であるのは、上記(3)〜(5)のステップ分がコストに加算されているからである。
では、エネルギーの利用効率という点で、電気を介するのとそうでないのでは、どれほどの差があるだろうか。
発電源のうち化石燃料(ガスや灯油)は、直接熱源として利用することもできるので、比較がしやすい。
家庭で直接化石燃料を燃やす場合(例えば暖炉や灯油ストーブ、ガスコンロ等)、化石燃料のもつエネルギーはほぼすべて熱エネルギーとして利用されるので、〈燃料100→熱100〉ということで、利用効率はほぼ100%となる。
(実際には器具の性能等に応じた損失が大小あるが、それは電気器具も同じだし、煩雑になるのでとりあえず考慮しない)。
化石燃料を一旦電気エネルギーに転換する効率、つまり火力発電の発電効率は、年々高まり現在で最大で60%近く、平均で40%に達しているという。
この電気が家まで送られてきて、熱に変換される。送電損失を5%を考慮すると、エネルギー変換効率は〈燃料100→電気40→熱38〉というわけで、約38%である。
エネルギーの有効利用という点から言えば、後者はもう、明らかに「もったいない」。
化石燃料の持っていたエネルギーの6割が、どこかに消えている(主に廃熱だと思うが)のである。
もちろん家庭内での化石燃料利用には、一酸化炭素など有毒性の排気や火災のリスクがともなうし、それに対応するコストも発生する。
だから「オール電化」は「安全性」をうたうのである。
その3 ■ オール電化は政治的判断
上記は化石燃料による火力発電の場合だが、では3割を占める原子力の場合はどうか。
原子量発電の発電効率は、日本の場合だいたい35%といわれる。
これは[発電された電気エネルギー/核分裂から得た熱エネルギー]という計算から得られる数字である。しかしながら化石燃料とは異なり、原子力は(兵器等をのぞけば)他の場所でそのエネルギーを有効利用できるわけではないので、この数字自体はほとんど意味をなさないと思う。
(原子力発電の仕組みは、核分裂反応のエネルギーを原子炉で熱エネルギーに変換し、さらに蒸気の運動エネルギーを経て電気エネルギーに変換する。基本的な仕組みは火力発電と同じである)
原子力は、ほうっておけば地中に眠ってるだけのエネルギーを取り出しているので、発電効率が何%であろうと、その意味で大変有効なエネルギー利用といえる。
さらに、単位エネルギーあたりのコストはさしあたり火力発電より安いこと(地震や攻撃・事故に対する安全対策コストを加えるとどうか、という話もあるが)、CO2排出が少ないことなどが原子力の追い風である。
発電におけるエネルギーの有効利用という観点に絞れば、原子力は明らかに優等生である。
火力と原子力以外の電源(風力や地熱・太陽光など)はまだ微々たるものであるため、「化石燃料消費を減らす」「CO2の排出を減らす」という近年の社会的価値観を是として(つまり火力発電は控え目にして)、なお「電気は潤沢に使いたい」と考えるのであれば、いまのところそれは、原子力発電によってまかなわれるほかない。
したがって、オール電化を採用するということは、とりもなおさず原子力政策へ同意する(少なくとも反対しない)という政治的判断の表明を(少なくとも客観的には)意味するのである。オール電化のウリの一つ「お得な深夜電力プラン」も、発電量を制御しづらい原子力発電所の余剰電力を前提としている。このことは、もうちょっと意識されてよいだろう。
ここで原子力発電の是非を書くつもりは無いが、原子力利用が潜在的に甚大なリスクを伴うものであることは客観的事実だろう。
コストは税金や利用料によって社会的に分散されるかもしれないが、リスクは原発のある地域が集中的に負う。
それは各家庭での小さなリスクを排除することと裏表である。
僕自身も「オールモスト電化住宅」において、どっぷり電力に頼った生活をしてるので、偉そうなことを言えた立場ではまったくない。
しかし、そこから一歩踏み出して「オール電化住宅」とすることが、電気と原子力に頼った生活を続けていくことの決意表明なのだとすれば、それには躊躇する。
その4 ■ エネルギー一元化ということ
最後に「家庭内のエネルギーを電気に一本化すること」について。
個人的に「オール電化」について二の足を踏む最大の理由は、エネルギー供給源を電気に一元化してしまうことへの不安だ。恐れ、といっていいかもしれない。
よくある話かもしれないが、例えば、もし停電が起こったらどうするのだという話だ。
最近では暖房や照明はもとより、時にはガスや給水さえも、電気が滞れば機能しなくなる。だから、オールモスト電化であってもこのリスクは残る。
停電などめったに起こらない。起きてもすぐ復旧するという向きもあるだろう。
そうかもしれない。でもそういうレベルの問題では無い気がする。
たとえば世界情勢の変化を受けて、電気料金の急激な値上げやむなしとなれば、
オール電化住宅はそうでない住宅よりも多大な負担を受け入れざるをえないだろう。
根本的なのは、エネルギーという生活・生命を支える重要な要素を、一つの企業に委ねてしまうことの不安である。
そんなもしものことばかり心配して、と思うかもしれないけれど、
たとえばビジネスで一つの大きな取引先に依存することが危険なのと同じであり、
電話やテレビなどの通信を、インターネット回線に一元化することも同じである。
(ルーター一つ故障したらもう話にならない)。
もうちょっと卑近な例では、夫や妻に精神的/経済的に依存しきってるのが危ない、って話だってそうじゃないのか。
そういえば原子力発電だって産油国への依存からの脱却(エネルギー自給)が一つの推進力になっているのだ。
何につけリソースの一元化というのは、コストや手間が効率化される(システムが順調な時には、という条件付きであるが)という点で大きなメリットがあるが、それは同時に他の選択肢を手放すことであり、ある種の依存状態になることを意味する。
Googleに頼りきりの情報生活がなんだか危ういのも同じだ。
僕はできればそんな状況を避けたいなぁと思う。
これは心配しすぎだろうか。
心配したところで電力会社や水道局やGoogleに頼り切りの状況は変わらないんだから、開き直ってもっと社会や会社を信用するべきなんだろうか?
Tags: 思いつき | MEMO 雑記・ブログ , SELECTED 選り抜き | 11.03.29 | (2)