究建築研究室 Q-Labo.
究建築研究室 Q-Archi. Labo.|京都の建築設計事務所

2010年09月: 究建築研究室 Q-Labo.|https://q-labo.info/2010/09/
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寺院:ラーメシュワラム Rameswaram, India, 2007

寺院:ラーメシュワラム Rameswaram, India, 2007

インド(ほぼ)最南端の聖地・ラーメシュワラム その2(→その1
上は、ラーマナータ・スワミーRamanatha Swamy寺院の有名な回廊。
太く短いプロポーションの角張った柱が連なる空間は、タミル地方の寺院に共通する独特のもので、綺麗な陰翳の階調を刻んでいる。

寺院:ラーメシュワラム Rameswaram, India, 2007

寺院のあちこちにある井戸。沐浴する人々が集まる。強い日射しの作り出す明暗のコントラストが、なんてことない建築空間に荘厳とも言える空気をまとわせてしまうことも。

寺院:ラーメシュワラム Rameswaram, India, 2007 寺院:ラーメシュワラム Rameswaram, India, 2007

左:外観。ゴープラムと呼ばれる楼門がそびえる
右:寺院境内。中心の神様を囲んで回廊・周壁がとりまくのが、この地方の寺院の平面構成の特徴。そこをグルグルぐるぐる回りながら参拝する。

寺院:ラーメシュワラム Rameswaram, India, 2007

寺院のすぐ外に、海がある。
海の中の人は、海水浴客ではなく、祈りながら沐浴をする巡礼者なのです。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ , PICTUREs 旅と建築 | 10.09.21 | (0)

北山杉雑感

先週は、鷹峯で林業をされているYさんの作業場横につくられた、手製の川床での食事にお呼ばれしてきた。はじめての父娘2人での外出でもあり。

灼熱の市街地とまったく異なる冷涼な川の上で、お酒と鶏スキを堪能。北山杉をとりまく情勢の悪さなどが話題に。

北山杉の需要がふるわないのは、それが高級なだけでなく、現代の建築・住宅・生活においてなぜ北山杉か、という問題がちゃんと位置づけられてないからなのはハッキリしている。今の若い施主や設計者はモノの良し悪しがわからん、とかいう話ですませてたらいけない。
垂木専用に生産された(!)芯の詰まった北山垂木の、垂木以外の使い方とか、磨き丸太の表情をモダンデザインの中で生かす表現とか。「数寄屋」よりもう少しカジュアルな使い方があっていい。

北山杉と現代建築で思い浮かぶのは、たとえば篠原一男の「白の家」。

実際見てないのが残念なのだけど、あの柱は、たぶん皮付きの丸太でもケヤキの面取り角柱でも鋼管でもダメで、北山丸太の中性的な柔らかさ真っ直ぐさでなくてはいけないのだろう。北山丸太が、末口と元口の径が揃っていてシュっとしていることも、理由の一つと思う。それは、そうなるように育てられているからだ(普通、木は元口=根っこ側が太くなる)。

それにしても、径が揃ってること、絞りの表情、磨きのツヤ。どれを見ても、北山杉は「自然素材」とはいえ、極度に人の手がかけられ「人工素材」に近づいている。
むかし、不均質な自然素材を加工して、均一で平滑・光沢のある表情をつくることは、木でも土でも、高度な熟練技術が必要とされる最高級の仕上げだった。ところが、そういった表情をつくるのは機械が最も得意とするところであり、最も安価に生産できるものであった。たぶん大正〜戦後頃に起こったであろう、この価値観の転換を、伝統技術の世界はまだ受け止めきれていないと、僕は思う。ツルピカシャープでおされな「人工素材」と、ざらざらぐにゃりで和みの「自然素材」という素材観の単純な二極化の間で、北山杉も宙ぶらりんなのだ。

(蛇足で書くと、中谷礼仁は北山杉のこの両義性を「アンドロイド」と呼び、そこにアンドロギュノスなエロスを見ていた(「建築MAP京都」のコラム)。個人的には同意する感覚だけど、一般化はしづらいなあ)

こう書いてると、なんかいろいろ使えそうな気がするのだけど。
北山杉を生かした建築をつくるなら、むしろ逆境の今がチャンスですよ、お施主さん!

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 10.09.16 | (0)

ちび2号と英語レクチャー

いくつかまとめて報告とか。

今月の頭、ちび2号が無事誕生。今度は男です。
ちび1号は女の子だったので、父親に似てブサイクに育ったり愛嬌がなかったらどうしようとか、生まれた時にはそれなりに心配したのですが、今回は勝手知ったる男なので、どのようにでも育ってくれと、はなから気楽です。
2歳になるちび1号とあわせて、一気に家の中がさわがしい。

その3日後くらいに、JICA大阪にて、アジア諸国から来ている研修生を対象とした「歴史都市の保全と観光:ヴァーラーナシーのばあい」と題したレクチャーを英語でしてきました。

そもそもは7月末頃、ある先生から『生きている文化遺産と観光』に書いた内容を英語で話してほしいとの依頼があったたため。英語の発表はまだしも、レクチャーはまったくの未経験にもかかわらず、7月の国際会議で英語力のなさを痛感した直後の話だったため、何事も勉強・経験などと殊勝なことを考えて引き受けてしまった。
当日、必死で準備したレクチャーの反応はそこそこ。質疑は(こっちは通訳があったので気楽)それなりに盛り上がったけれど、いまひとつお互いの関心のズレを縮めきれなかった印象。うーむ。
研修生たちは、実はみんな文化遺産行政の担当者であったため(それを知らされたのが当日だった。てっきり学生が相手と思っていたのだ)、彼らの関心は本国で抱えているであろう課題に応える実践的内容にあったのだ(質問もそこらへんに集中した)。いっぽう、僕の基本的関心はどちらかといえば制度の枠からハミ出た自律的な現象にあるので、その点は調整が必要だった。いろいろ反省。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 10.09.15 | (0)