究建築研究室 Q-Labo.
究建築研究室 Q-Archi. Labo.|京都の建築設計事務所

2009年01月: 究建築研究室 Q-Labo.|https://q-labo.info/2009/01/
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Varanasi, Banaras, Benares と呼ばれる都市の名前の日本語表記

"ARTICLEs"の方に、むかし建築学会の雑誌に書いた、ヴァーラーナシー Varanasi の「死を待つ人の家」の話を載せました。

私にとってヴァーラーナシーは、修士以降ずっと研究のフィールドにしている馴染みの深い都市なのだけれど、この都市について、つねづね不満というか不便に思っていることがある。
それは、ヴァーラーナシーがインドの一大聖地にして世界的観光地であり、かなりの知名度をほこる都市(日本でいう京都の存在に近い)であるにもかかわらず、都市の呼称にバラツキがありすぎる点だ。

(ヴェネチア/ベネチア/ベニス、など同様の事例はよくあるけれど、ヴァーラーナシーの呼称の振れ幅はその比ではない)。

アルファベット表記では、Varanasi(これが公式の「名称」)、Banaras、Benares と三種類ある。これは時代に対応した呼称なので(詳しくは、こちらの※1を参照)、まあよい。スペリングもそれぞれで一定である。問題はその日本語表記(読み方)だ。

「外国語の日本語表記」問題については、これまでに様々な議論がなされているが(たとえば)、ここでは、どの呼称が「正しい」かという点はさしあたり問題としない。そもそも現地で一般的な呼称にさえ、Varanasi と Banaras の二つがあるからだ(Varanasiはサンスクリット語、Banarasはウルドゥー語がもとになっている。Benares はその英語版)。
なので、以下では、呼称のバラツキの実態把握、またそれへの対応、という点にしぼって話をすすめたい。

では実際にどのような日本語表記が見られるのか。
まず、南アジア研究者必携の「南アジアを知る事典」や、大手メディアでの表記は、下記のとおりだ。
(《》内は、そこで「別名」としてあげられてるもの)

「南アジアを知る事典」平凡社:
 ワーラーナシー《ヴァーラーナシー、バナーラス、ベナレス》
「地球の歩き方 インド編」ダイヤモンド社:
 バナーラス《ヴァーラーナスィー、ベナリース、ベナレス》
アジア古都物語:ベナレス」NHK:
 ベナレス《ワーラナーシー、バラナシ、バナーラス》
Wikipedia」WEB:
 ワーラーナシー《ヴァーラーナスィー、バラナシ、バナーラス、ベナレス》
ガンジス河でバタフライ」テレビ朝日系列:
 バラナシ

それぞれ第一にあげる呼称は、みごとにバラバラである。アルファベット表記3種のどれを採用するかの違いに加え、子音の表記、「ー」(長音、音引き)の位置などに相違が見られる。表記には相当注意を払っているはずの大手メディアでさえ、こうであるから、個々人による表記の振幅は推して知るべしである。

どの表記も音感はどれもだいたい似た感じのため、話をする分にはあまり気にしなくてもよい(だからよけい混乱する)。しかし、インターネットで情報を集めようとする時に、「ワーラーナシー」で調べるか「バラナシ」で調べるかでは、得られる情報には結構な差が生じるのである(詳細は後述)。学術的な文献資料を探す場合でも、状況それほど変わらない。分野ごと、研究者毎に少なくない表記のバラツキがある。
(私は自分の博士論文執筆にあたって、少なくとも日本語の文献については、この都市に関連する論文・書籍をほぼ全て押さえたつもりでいる。しかし、このような事情があるゆえ、網羅しきったとは断言できない。)

このような状況は何が問題だろうか。
第一に情報を求める者にとって、不便である。
例えば「ベナレス」と呼ばれる都市について、一般的事柄より少しでも込み入ったことを知りたいと思ったら、英語表記3種に加えて、「バナーラス」や「ヴァーラーナシー」「ワーラーナスィー」などなど無数のキーワードでも検索しなければならない。
第二に、情報を発信する者にとっても不具合がある(上記と逆の視点)。
せっかく論文や書籍・ブログなどで、「ヴァーラーナシー」について何らかの情報を発信したとしても、「バナーラス」や「ベナレス」「バラナシ」しか知らない人には、届かない可能性が高いからだ。

追記:
というようなことを考えた小論を、「Varanasi, Banaras, Benaresと呼ばれる都市の名称のカナ表記:Google検索を用いた表記バリエーションの実態調査」として、『形の文化研究』Vol.5(2009年9月)に発表しました。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 09.01.30 | (0)

景観条例・M監督のスケッチ

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年が明けてから年賀状しか見てないと思われてもなんなので、仕事の話も。
上の写真は、現在見積もり調整中の住宅の1/50模型、ほぼ最終版。

計画敷地は景観条例の対象地区で、屋根は3.5〜4.5寸勾配(約20度前後)に日本瓦が必須で、軒の出60cm、けらばは30cmを出すこと等、デザインコードはかなり厳しめ。道路斜線制限なども重ねると、建築の輪郭については、(セットバックさえしなければ)ほぼ自動的にいわゆる伝統的京町家の形になってくる。なるほど、よくできていると感心した

感心はするが、鰻の寝床敷地が多い京都市街で、30cmなどという中途半端な「けらば」をつけてどうするのか。周囲がみんな基準にしたがって建て替えたら、家と家の間に60cmの隙間ができることになるが、これぞほんとの鰻の寝床のできあがり、ではないか。どういう意図だろう。
景観政策にはどちらかというと賛成の意見なんだが、あと、マンションの1,2階に瓦の庇をつけさせるのはやめて頂きたい。個々のデザインには良し悪しあるけれど、あれをもって「景観に配慮している」と言われると、戸建住宅を必死で設計してるこちらはバカバカしくなってしまう。本気で景観形成を誘導するなら、容積率のゾーニングをもっときめ細かにやるのが効果的じゃないですか(マンションやテナントビルを建ててよい場所とそうでない場所を分けろ、ということ)。

そんな条件もふまえつつ、この住宅の設計では町家の基本構成を踏襲しながら、構造壁の配置や奥庭の形状に工夫を加えることで、「ありそうでなかった」空間づくりをねらっている。
景観条例に規定は無いが、街並みを乱す大きな要因と考えるセットバックを避けたため、プランニングには結構苦労した。一方で、通り庭形式というのは非常に良くできたスタイルだとも実感した。特に人の動線だけでなく設備の動線を兼ねると、各部の納まりが非常によいのだ。

さて現況は、先日工務店さんから第4回見積りがあがってきて、かなり頑張ってくれてるものの、もう一歩という段階。後はこちらの努力か。

本日は、施主氏とともに床暖房機器の営業の方と打合せ。宮崎駿監督の自邸の工事にも入ってたとかで、話の流れでその資料も見せてもらった。監督から設計事務所に毎日のように送られたという自邸のスケッチなどもあって、施主ともども大興奮。窓の開き方とか細かなスケッチがたくさんで、コピーでいいから本気で欲しくなった(営業ツールとして破壊力抜群だなあ)。
ちなみにその営業の方が監督にもらったサイン色紙には、トトロが床暖パネルを敷いてる絵が描いてあった。大工さんがもらった色紙は鉋を持ったトトロ。宮崎監督の人柄とともに、現場はさぞ楽しげな雰囲気だったんだろうな、と伺われた。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 09.01.17 | (0)

ワット・プラケオ Wat Phra keo:Bangkok, Thailand, 1996

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「派手にもほどがあるんじゃないですか」と申し上げたいが。「成金趣味」と一蹴するのも簡単だが。

もし「金に糸目はつけぬから、これだけの装飾密度で設計してくれ」
と言われたら、それはなかなかの難題であろう(でもやってみたい)。
倦まない持続力やバランス感覚とともに、密度と調和の中に自律的変化を生み出す一種のデザインシステムの開発が必須に違いないからだ。
さらに「人はなぜ装飾するか」という問題も考えると面白いのだ。

建築における装飾について、数年前に思うところを「装飾と住居」という一文に整理したことがある(ルドフスキーの『みっともない人体』や、鶴岡真弓竹村真一の議論に影響を受けて書いた)。
装飾は、人間にとってと同じように建築にとっても、かなり本質的なはず、というのは今後じっくり展開させたいテーマの一つ。


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Tags: | MEMO 雑記・ブログ , PICTUREs 旅と建築 | 09.01.14 | (0)

年賀状・撰2009 BEST11

企画主旨」「BEST 3」に続き、BEST 11の発表である。

以下、順位不同で、タイプ別に紹介しよう。

●「近況報告」
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昨年一年の仕事の状況や身近な出来事を報告しつつ、今年の抱負を述べる形式。お会いする機会の少ない人でも、近況がよくわかってわりと好きなタイプ。

【左】「昨年の3大ニュース」と「今年の3大目標」を掲げる。メインコピーは短歌! 壁新聞的デザインで、写真のキャプションも充実し、楽しい。
○差出人:歌人・イソカツミさん

【右】テキストで家族全員のコメントを列記するだけのものだが、コメントの口調が揃ったリズム感のある文章構成で、レイアウトも端正。紙質・色が毎年変わったり、愛犬のコメントがオチになっていたり、細やかな配慮が随所に感じられる。
○大学教授先生(昨年はお世話になりました)

上記2作品のポイントは、テキストの充実度もさることながら、デザインフォーマットの完成度が高いという点である。基本構成が確定しているので、毎年の年賀状制作はさぞ効率的に行われているであろう。羨ましい。
毎年のデザインに統一感があるため、受け取る側にとっても、一目で誰からの年賀状か分かるよさがある。


●「書」
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「福寿無量」。こういうのはもう書ける人にしか書けない。
羨ましい。
○差出人:建築家・長野良亮氏


●「手作り」
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可愛い柄付きの紙テープ(おそらくご本人デザインによるもの)を貼り、それに沿って手書きのメッセージを書き添えたもの。
○差出人:型染作家さん

「書」「手作り」、どちらのタイプも一枚一枚手の跡が感じられる嬉しさ。


●「写真」

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前の年に撮った写真をどーん、というスタイルは古くからあるが、デジカメと家庭用プリンタの普及に比例して広がった。個人製作の絵ハガキだ。そんな中で、やはりプロの写真は群を抜く。本作品は西アフリカの建築をとり続ける日暮さんの写真。この突起がたまらん。
○差出人:写真家・日暮雄一


●「家族近影」

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最近あちこちで子供が生まれているため、年賀状の赤ん坊率が急上昇。その中から2点をチョイス。

【左】神楽岡常連の庭師・松崎さんちから。奥さんによる手作り感満載のカラフルな一品。下のお子さんは、昨年うちのチビと一週間差で誕生。

【右】神楽岡でおなじみの家具作家・戸田直美さんちから。彼女の気取らないけど小粋な年賀状は毎年の楽しみの一つ。
20数年前を懐かしむかのように机におかれた家族写真、それを押さえるウェイトは、昨年生まれた娘さんの名前にちなんだ双葉形。双葉ちゃんの結婚式を明日に控えた晩の父タイチロウ氏の書斎机の上、というのは深読みだろうか。さすがのクオリティで風格さえ漂っている。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 09.01.12 | (0)

年賀状・撰2009 BEST3

2009年、柳沢家および究建築研究室あてに届いた年賀状BEST 3である。
企画主旨はこちら

まずは、年末の忙しい時間を割いて年賀状をつくり送っていただいた全ての方に感謝の意を表したい。「選考」「優秀」などと、上から目線で何様や、という向きもあろうが、あくまで年賀状に込められたメッセージを真摯に受けとめようとする姿勢に基づくもののと、ご容赦願いたい。

さて、選考作業は連れ合いと二人で昼飯休憩の際に行った。
対象は年賀状のデザイン(定型文として印刷されたテキストは内容も含む)として、手書きメッセージの内容や差出人との関係の疎密は、考慮しないこととしたが、何をもって「優秀」とするかは、明快な選考基準を特に定めないまま開始した。

まず一通り眺めながら、こりゃなかなか面白い、とフックのあるものを選ぶ一次審査。30枚程度が浮上。その中からさらに、10枚程度にしぼる二次審査。
二次審査は、我々審査員がどのような年賀状を評価している(お気に入り)か、ということが次第に赤裸々になってくるのが楽しい。「審査」という作業は、常に自身の価値観の問い直しを伴なっている。

30分に及ぶ上記のような綿密な審査を経て、11枚の「優秀年賀状」を選出した。
そのうち、栄えある第一回のBEST3に選ばれたのが、以下である。

●最優秀作品 1点

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肉である。
はじめ、バーベキュー・レストランのDMかしら、と思った。
それが干支にかけた「牛肉」であることに気付いたのは、しばらく時間が経った後であった。
正月にふさわしからぬしたたる肉汁の生々しさに加え、何とはなしにめでたい存在であるはずの干支の肉をさぁ食いやがれという、「年賀の死角」から打ち込まれた、朗らかかつ不届きなカウンターパンチであった。
しかしそこには、「人間は自分の楽しみのため、この『めでたい』正月にすら、『干支』としてもてはやしている動物さえも、殺し食ってるではないか」、という正月の矛盾を鋭く突くメッセージさえ暗に込められている、のかもしれない。
写真のクオリティが非常に高いため、「ロフトで売られてる既製のデザイン年賀状ではないか」という疑義も出たが、その後本人に直接確認したところ、自ら買った肉を焼いて撮影したのだという。
その手間のかけ方が素敵である。
作者の方には、是非今後とも、寅年版、卯年版と続けて欲しいと願うものである。
(来年はワシントン条約に気を付けて)

○種別:「干支」
○差出人:「肉好き」(本人談)のデザイナー


●優秀作品 2点

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写真が圧倒的多数を占める「家族近影」タイプの中で、イラストのかわいらしさが抜きん出ていた。
「家族近影」は、「干支」と並ぶ年賀状の二大勢力であるが、「作品」として鑑賞に耐えるものをつくるのはなかなか難しい、と審査員も今年はじめて実感した。
写真以上に差出人家族の温かそうな雰囲気・人柄が伝わってくるこの愛らしいイラストは、友人のイラストレーターによる描き下ろしだという。

○種別:「家族近影」
○差出人:WEB雑貨店の店主さん


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はなのすきなうし」のような、とぼけた牛の表情もよいのであるが、入賞の最大のポイントは、手刷りの版画であること。
小学生の頃、年賀状といえば版画であった(またはイモ版)。私も中学生くらいまでは毎年版画で作っていたが、次第に面倒くさくなり、やめた。
版画の年賀状は少なくなったものの、今も一定数届く。偉いなあ、と思う。
しかし今年、そのほとんどが、刷った版画をスキャンしたのをインクジェットプリンタで印刷したもの、であることに気付いた時は、やや複雑な気持ちになった。
版木を彫るだけでもすごい事だと思う。スキャン&プリントであろうと今のプリンタの性能であれば、ほとんど原図に遜色ない。だが、しかし。
版画は、彫る楽しさと苦労もさることながら、刷る時の緊張感が醍醐味ではなかったか。一枚の版木から異なる風合いの版画が刷り上がるところが、素人版画の魅力でなかったか。うーむ…、ノスタルヂアか。
手刷りのものは、今年この一枚だけであった。
インクを吸ったハガキの反りが新鮮に見えた。

○種別:「干支」
○差出人:布バッグのデザイン・制作をしている方


いちおう、あと8作品あり

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 09.01.11 | (0)

年賀状について考えてみる

現在京都で進行中の住宅設計が大詰めを迎えつつある。
相見積もりを経て工務店を決定し、最後の見積もり調整段階に入った。
本日も事務所にて施主と、どこをどうシェイプアップするか、みっちり4時間の打合せ。
1月中に決着し、2月から着工できるとよいのだが。

さて、今年初めて、もらった年賀状の中から「お気に入り」を選出する、ということをやってみた。
何年か前の旧正月に、鈴木成文先生宅の餅つきにお邪魔した際、先生が年賀状の優秀作20選を部屋に展示されているのを見て、これはいつか自分でもやってみたい、と思っていたのを、ようやく今年実行に移したのだ。

その前に、年賀状制作に創意工夫をこらす人は少なくないが、それは何故だろうと考えてみる。

FH020007.jpgまず第一に、年賀状を儀礼的挨拶以上のコミュニケーション・ツールと考える人は、当然、力をいれるだろう。
年賀状には、デザイン(既製年賀状の選択も含む)・筆跡・テキストもろもろを通して、差出人の人柄がかなり滲み出るからだ。名刺にも似ている。

第二に、年賀状ならではの特殊性としてあげられるのが、「年賀状は他の多数の年賀状と同時に読まれる」という事情である。
年賀状は、意識的にも無意識的にも、常に他の年賀状との比較にさらされているのである。

私がある知人に年賀状を出したとする。
その知人は200枚の年賀状を受け取ったとする。
私の年賀状は、その他199枚の年賀状と束ねられ、テレビのお笑い特番を横目で眺めながらコタツでおせちをつつきつつお屠蘇でちょっといい気分な知人(独身)のもとへ配達される。
彼は、「来たか来たか」とちょっと嬉しげに心の中で呟きながら、その束をポストから取り出すとコタツに戻り、丁度ひざに飛び乗ってきた愛猫の背を撫でつつ、あぁあいつ(昔の彼女)にも子供ができたか、俺も今年は彼女くらいつくらないとな、などと目を細めながら、積み重ねられた年賀状の束を1枚ずつめくり、目を通していく…

などという、えらく典型的に昭和的な正月を私の知人が過ごしているかどうかは知らないが、文字通り「目を通す」という表現にふさわしい年賀状の閲覧方法。1枚あたりの「目通し」所用時間は、長くて1分程度、へたをすれば数秒というのが、一般的であろう。

そんな状況下にあって、できれば自分の年賀状にはしばし目をとどめて欲しい、と思うのは人情であろう。
一年に一度、年賀状だけのやりとりの人もいる。数秒で流されて、内容も印象も記憶に残らないようでは寂しいではないか。
また、建築を含むデザイン関係の人間にとっては、自らの特技や職業性を活かしたりアピールするまたとないチャンスでもある。営業的な意味合いを含む場合もある。まかり間違っても「あらこの人デザイナーとかいうわりに年賀状はダサいのネ」などと思われては大変だ。

つまり年賀状は、一種のコンペ的要素を備えたコミュニケーションであるといってよく、それこそが、ある種の人たちが、ついつい年賀状制作に熱を込めてしまう理由なのではないか、と推察するのである。
(「コンペ的コミュニケーション」には、他に集団面接や合コン等も該当すると思われる)

コンペとコミュニケーション、どちらに重点をおくかは、人それぞれである。
しかし、10cm×14.8cmの二次元に表現するという共通フォーマットが、差出人の意図にかかわらず否応なくコンペ的要素を煽っている。干支という共通の「お題」まである。

ともあれ、熱の込もった力作年賀状を、受け取った当日目を通しただけで死蔵してしまうのは、実にもったいない。
失礼といってもよい。
優れた、あるいはお気に入りの「作品」は、個人的に褒め称えた上で表彰し、末永く1年間掲示の上、鑑賞しようではないか。
というのが、長くなったが企画の主旨である。

例によって前置きが長くなったので、肝心の年賀状は次回である。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 09.01.10 | (0)

2009 謹賀新年・牛

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遅ればせながら、謹賀新年。
今年の年賀状は、丑年ということで写真選定に力が入ったけれど、おもて面は子供に占拠され、牛は宛名側へ。
曼荼羅都市・マドゥライで出会った、角の彩色に飼い主の愛情を感じさせる牛。

一文は、高村光太郎の『牛』より。
ちなみに以下のように続きます。

 その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
 形のおもちゃを喜ばない
 魂の影に魅せられない
 うるおいのあるやさしい牛の眼
 まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
 永遠を日常によび生かす牛の眼
 ・・・

(「正直な涎を持った大きな牛」というフレーズと迷ったが、新年早々よだれというのも何なので、上文を採用)
 
高村光太郎の牛もよいのだが、印象的な牛の描写で思い起こされるのは藤原新也の『牛歩来』(「印度動物記 」所収)。
素肌の胸に触れる牛の鼻先の感触を、金子光晴の「唇にふれる唇ほど、やわらかなものはない」(原文は「唇で」)という一文を借りて、表現するのである。
ぞくぞくする。


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人間が失った自然性を牛に投影するという構図は、上記2作品や有名な「十牛図」をはじめ、牛をテーマとする作品に多く見られるようだ。
僭越ながら、僕自身もインドでの調査の際、思いつきではじめた牛の一日密着追跡調査(丸6日6頭やった)を通じて、その構図を体感するような経験を得た。おおげさに言えば、それは、都市の中にありながら牛を媒介として悠久の時空にトリップするような感覚なのだ。
(昨年末、「建築ジャーナル」誌の山崎氏から機会を頂き、その時の体験を『インドの牛は都市のエアポケット』というささやかな一文にまとめることができたので、ほとぼりが冷めたらここにも載っけてみたい)。

牛はいいぞ、という話。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 09.01.07 | (0)

三溪園

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オムツはさておき、元旦には家族揃って横浜の三溪園へ散歩に行った。

写真は臨春閣(上)と聴秋閣(下)。残念ながらこの季節はどちらも中に入れず、池も枯れてて、今ひとつ味わいきれず。次回に持ち越し。
聴秋閣の真白い障子が、枯れた木々の中にぼんやりと浮かび上がっている様子は、なかなか新鮮であった。雨降ったら大変そうだが。

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鶴翔閣の玄関部(車寄せ)。木造らしいというべきか、らしからぬというべきか。細身かつ大胆なつくり。
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臨春閣の建具裏で冬ごもりしてたフタホシテントウの集団。

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Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 09.01.06 | (0)

帰省・オムツ

年末30日より帰省。
子連れで初の遠出という親の緊張をよそに、生後4ヶ月のチビは新幹線で爆睡。

このたびの帰省中、チビは普段の布オムツに代えて紙オムツを装着していたのであるが、紙オムツの性能にいまさら驚いた。いつもであれば上着までシットリ濡らす小便が、一滴の漏れもなくポリマーに吸収され、しかも表面サラサラ。広告に偽りなしの恐るべき吸水力である。
こんな吸水性のよいものをデリケートなお肌に密着させてて大丈夫だろうか、という不安は残るものの、この威力では、洗濯に手間のかかる布オムツが駆逐されるのも、むべなるかな。


しかし、紙であろうと布であろうと、いかに吸水性に優れようとも、ギャザーが発達しようとも、オムツというものには構造的な欠陥があるのではないか、と、チビのウ○コまみれの股間をみる度に思う。それは、あれだけのブツを、皮膚表面わずか10〜20mm程度の狭小空間でせき止めようという発想である。21世紀にもなった今日、オムツにかわる装着型排泄物処理(収納?)装置が、そろそろ開発されてよいんじゃないか。NASAの仕事だろうか。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ | 09.01.06 | (0)

石窟寺院:雲崗, 中国, 1996

石窟寺院:雲崗, 中国

石窟寺院そのものではなく、その入口を覆う楼閣群に注目する。

左右に削り残した崖の間に木造建築がはめ込まれているが、
一見、懸崖から木造建築が産まれ出てくるような動感がある。
斜面に柱をひっかけただけの渡り廊下もチャーミング。
崖を彫り込んだだけの石窟よりもむしろ、
その前に掛け渡された建築に魅力を感じるのは何故でしょう。

Tags: | MEMO 雑記・ブログ , PICTUREs 旅と建築 | 09.01.05 | (0)