オーセンティシティとインテグリティ
2月4日、京都工繊大での研究会「文化遺産におけるオーセンティシティauthenticityとインテグリティintegrityの本質を考える」に参加する。主催者自身もまだ答えが見つかってない問題を扱うという、研究会らしい研究会で楽しかった。以下、あまり整理できてないけどメモとして記載します。
当日の議論は、世界文化遺産の登録の現場における評価基準としての実務的な有用性が主に軸になっていて、それはあまり本質的ではないのではと思ったが、稲葉伸子さんの、各国や現場の実態・工夫を包括し対象の価値を担保する概念があれば、それをオーセンティシティと呼ぼうがインテグリティと呼ぼうがどっちでもよいという話(意訳)や、清水重敦さんの変化する宇治の文化的景観のインテグリティをどう考えるかという話は、とても勉強になった。(インフィル・ビルディングの話も)
自身の関心としては、歴史的な街並みの中で新しい何かを作るときの、アリバイ的な不誠実な対応や、悪意のないしかし不適切な取り組みにどう対処するか、あるいは非文化財的建築のリノベーションでの、何でもありやったもん勝ち的状況をどう交通整理できるか、という問題意識があった。2つの問題は同じレベルではないけど、どちらもオーセンティシティとインテグリティにからんだ問題であると思う。
今回の研究会とは別の話だが、西洋絵画の修復の世界では、オーセンティシティはもちろん極めて繊細に取り扱われるんだけれど、たとえば絵画の一部が大きく欠損したような場合、材料や手法のオーセンティシティは多少失われてでも、作品の美的価値・鑑賞価値(作品としてのインテグリティ)を回復するために(判別可能かつ可逆的な方法でもって)補完的に筆を加えることが許される、という考え方があるという。これは文化財的建築物の補修での考え方も基本的に同じだと思う。欠損部材の新材による補完とそこへの古色の施与は、インテグリティを保つために行うのである。
上記の例に鑑みると、オーセンティシティとインテグリティは多分に重なる概念だ(というのは今日の研究会でよくわかった)けれど、両者はやはり重心というか軸足の位置が異なるのだと思う。どちらも「あるものが、まごうことなきそれ自身であること」をいうのだけど、個人的な理解では、オーセンティシティは時間的な連続性の正統さに、インテグリティは物的状態としての連続性に重心があるのだと思う。建築であっても、京都会館など文化財クラスのものはオーセンティシティで議論したらよいが、そうではないわりと普通建築や街並みを考える時、オーセンティシティを持ち出すと話が硬直化するので、インテグリティという考え方をうまく補助線にできないかなと思う。
とはいえ、研究会で何度も言及されていた「奈良ドキュメント以降のオーセンティシティ概念の拡張」にしたがえば、これはどっちもオーセンティシティに包含されるんだという。この拡張概念が共有されていないことが、分野をまたいだ時の話をややこしくしてるという強い印象を受けました。
| MEMO 雑記・ブログ | 17.02.05