年賀状について考えてみる
現在京都で進行中の住宅設計が大詰めを迎えつつある。
相見積もりを経て工務店を決定し、最後の見積もり調整段階に入った。
本日も事務所にて施主と、どこをどうシェイプアップするか、みっちり4時間の打合せ。
1月中に決着し、2月から着工できるとよいのだが。
さて、今年初めて、もらった年賀状の中から「お気に入り」を選出する、ということをやってみた。
何年か前の旧正月に、鈴木成文先生宅の餅つきにお邪魔した際、先生が年賀状の優秀作20選を部屋に展示されているのを見て、これはいつか自分でもやってみたい、と思っていたのを、ようやく今年実行に移したのだ。
その前に、年賀状制作に創意工夫をこらす人は少なくないが、それは何故だろうと考えてみる。
まず第一に、年賀状を儀礼的挨拶以上のコミュニケーション・ツールと考える人は、当然、力をいれるだろう。
年賀状には、デザイン(既製年賀状の選択も含む)・筆跡・テキストもろもろを通して、差出人の人柄がかなり滲み出るからだ。名刺にも似ている。
第二に、年賀状ならではの特殊性としてあげられるのが、「年賀状は他の多数の年賀状と同時に読まれる」という事情である。
年賀状は、意識的にも無意識的にも、常に他の年賀状との比較にさらされているのである。
私がある知人に年賀状を出したとする。
その知人は200枚の年賀状を受け取ったとする。
私の年賀状は、その他199枚の年賀状と束ねられ、テレビのお笑い特番を横目で眺めながらコタツでおせちをつつきつつお屠蘇でちょっといい気分な知人(独身)のもとへ配達される。
彼は、「来たか来たか」とちょっと嬉しげに心の中で呟きながら、その束をポストから取り出すとコタツに戻り、丁度ひざに飛び乗ってきた愛猫の背を撫でつつ、あぁあいつ(昔の彼女)にも子供ができたか、俺も今年は彼女くらいつくらないとな、などと目を細めながら、積み重ねられた年賀状の束を1枚ずつめくり、目を通していく…
などという、えらく典型的に昭和的な正月を私の知人が過ごしているかどうかは知らないが、文字通り「目を通す」という表現にふさわしい年賀状の閲覧方法。1枚あたりの「目通し」所用時間は、長くて1分程度、へたをすれば数秒というのが、一般的であろう。
そんな状況下にあって、できれば自分の年賀状にはしばし目をとどめて欲しい、と思うのは人情であろう。
一年に一度、年賀状だけのやりとりの人もいる。数秒で流されて、内容も印象も記憶に残らないようでは寂しいではないか。
また、建築を含むデザイン関係の人間にとっては、自らの特技や職業性を活かしたりアピールするまたとないチャンスでもある。営業的な意味合いを含む場合もある。まかり間違っても「あらこの人デザイナーとかいうわりに年賀状はダサいのネ」などと思われては大変だ。
つまり年賀状は、一種のコンペ的要素を備えたコミュニケーションであるといってよく、それこそが、ある種の人たちが、ついつい年賀状制作に熱を込めてしまう理由なのではないか、と推察するのである。
(「コンペ的コミュニケーション」には、他に集団面接や合コン等も該当すると思われる)
コンペとコミュニケーション、どちらに重点をおくかは、人それぞれである。
しかし、10cm×14.8cmの二次元に表現するという共通フォーマットが、差出人の意図にかかわらず否応なくコンペ的要素を煽っている。干支という共通の「お題」まである。
ともあれ、熱の込もった力作年賀状を、受け取った当日目を通しただけで死蔵してしまうのは、実にもったいない。
失礼といってもよい。
優れた、あるいはお気に入りの「作品」は、個人的に褒め称えた上で表彰し、末永く1年間掲示の上、鑑賞しようではないか。
というのが、長くなったが企画の主旨である。
例によって前置きが長くなったので、肝心の年賀状は次回である。
Tags: 年賀状 | MEMO 雑記・ブログ | 09.01.10 | (0)