究建築研究室 Q-Labo.
究建築研究室 Q-Archi. Labo.|京都の建築設計事務所

SINCE 1964: 京都タワー論争をめぐって: 究建築研究室 Q-Labo.|https://q-labo.info/article/000097.php
Copyright © 柳沢究 Kiwamu YANAGISAWA, 2008-2024

SINCE 1964: 京都タワー論争をめぐって

kyototower.jpg

最近なんだか再評価の機運が高まりつつある「京都タワー」(私が京都に住みはじめた90年代半ばには、かなり白眼視されていたように思います。また、タワー内部の時が昭和で止まっていました)。建設当初に大きな論争を巻き起こした事はよく知られていますが、決着はタワーが完成してなしくずしに。完成から44年(執筆時で38年)経ちました。そろそろ決着をつけてもよいのでは。

京都げのむ』第2号(2002年)掲載の文章に若干の加筆・修正


「パリのエッフェル塔を見よ、10〜20年後の評価を待ってほしい」

 1964年、京都タワー建設への反対運動に対する賛成派の言である。もっとも、このような台詞は、「問題物件」が生じる際にいつも語られる常套句ではある。
 さて、京都にあのタワーが誕生したのが1964年12月、今年ですでに38年が経つ。評価判定はそろそろ下されたであろうか?
 
 このような問いかけを京都の市民に向けた時に得られる反応は、おそらくかなりの確率で、「別にどうでも…」というものではなかろうか。その評価如何についての思考は停止し、口にすることさえ空虚な観がただよう。
 それゆえ今回我々は都市へと繰り出し、身をもってその評価・価値判定を試みたわけであるが[※補注1]、そこで一つのごく自然な疑問を抱いた。このタワーは何故、どのような経緯で誕生したのか。「激しい論争」があったときくが、果たしてそれはいかなるものであったのか。京都タワーの前にも後にも、京都に「論争」は尽きない。ではタワーをめぐる論争はその中でどのように位置づけられるのか。やがて来るべき新手の「問題物件」と対峙する時の心構えとして、ここで40年前の論争を振り返ることに若干の意義はあるだろう。


● BEFORE 1964

 京都における建設行為をめぐる「問題」は、もちろんタワーが初出ではない。特に東京遷都により失われた京都のアイデンティティを回復するため近代化(西洋化)に躍起になった明治〜昭和初期、多くの「問題物件」が輩出されている。琵琶湖疎水や路面電車、巨椋池干拓、そして建都1100年記念事業などである。三条界隈の洋風建築群や京都国立博物館の建設に際しても、反対運動が起こったという。
 しかしこの時期の建設は、事業的成功もあってか完成後間もない時期からおおむね良好な評価を得ている。後の論争における開発論の拠り所となる、いわゆる「京都の進取の気風」はこの成果に依拠するところが大きい。


● 1964 「京都タワー論争」

 時は高度成長まっただなか。同年開催の東京オリンピックを頂点に、全国的な建設ラッシュが進行していた。夢の超特急が開通したのもこの年である。
 そんな時代の中、京都は財界の一致団結のもと「国際観光都市」を標榜し、マス・ツーリズム時代の一大観光センターを駅前に計画したのであった。企画は58年、オリンピックにあわせての完成を目指す「京都産業観光センター(後の京都タワービル)計画」である。

 タワー建設が一般に明らかになったのは1964年2月の新聞記事、「京都にタワー/古都の風致をこわしては…と棚橋諒教授苦心の設計…」(64/2/1・朝日)である。
 社史『京都タワー十年の歩み』によれば、「京都産業観光センター」にタワーを建てるという構想は初めからあったわけではない。当初は通常の箱形ビルのみの予定であった。ところがある時期、東京タワー(1958年)やマリンタワー(1961年)など各地のタワー建設を見たセンターの役員が、京都にもタワーを作れないかと提案した。それを京都大学・教授の棚橋諒氏に相談したところ、ビルの上に乗せることは技術的に可能であるとの見解を得て、屋上タワーの建設が決定したという。箱形ビルの上にタワー、という特異な構成はかくして生まれた。

 タワー建設が新聞に発表された1964年2月というタイミングは、タワー部分の着工とあわせたものである。これ以前にタワー建設計画が公表されていたかどうかは未調査であるが、もしこれが初の公表であったとすれば、建設側の認識・意図についていくつかの憶測が可能である。一つは、タワー建設が京都において「問題」となることがまったく予測されていなかったこと。もう一つのより穿った憶測は、タワーが引き起こす「問題」が予見されていたため、後戻りのきかない着工時まで公表を控える意図があった、というものである。

 ともあれ、「論争」の直接の発端となったのは、在日フランス人J・P・オーシュコルヌ(ノートルダム女子大講師)による高山京都市長あての抗議文であった(2/28・朝日)。続いて建築家A・レーモンドが坂倉日本建築家協会会長に「日本の建築家は反対しないのか」との抗議文を提出する。最初の一声が外国人からあがるのは今も昔も変わらない。以後、文化人、評論家、建築家を中心に反対・賛成の声明が相次ぐのであるが、以下にそれらの代表的意見を簡単にまとめてみた。

※参考:『近代建築』 64年10月号、『新建築』 65年3月号、『京都タワー十年の歩み』京都産業観光センターほか



    □賛成・擁護派
  • 古都といえども都市としての発達を考えれば新しい開発・建設のエネルギーが必要である。
  • 京都は常に新しいものをとりこみながら発展してきた。
  • 都市をつくるのはそこに生活する市民であり、彼らに古都としての生活を強要することはできない。
  • 世界的なマス・ツーリズムの潮流から京都が観光都市化するのは必然(だからタワーもOK)。
  • 現在のみすぼらしい駅前は近代都市京都にふさわしくない。たとえ駅前が近代化されたとしても京都の良さは失われない。
  • 上空からの新しい視点を開拓したという点でタワーには現代的な意義がある。京都が観光都市として発展するためには必要。
  • 京都のように山に囲まれた土地で、あの程度の高さのものがたっても自然景観にはほとんど影響を与えない。
  • 無骨な鉄骨は隠すからデザイン的には問題ない。

    □反対・否定派
  • 京都は日本の国宝的文化財都市、日本人の心のふるさととしてそのまま保存すべきである。
  • このような高い構築物は京都の景観を損なう。
  • 京都のような都市を上から見てどうする。京都は歩いて見るべき都市だ。
  • デザインそのものが不細工・低俗である。ビルの上に乗っかっているのがよくない。
  • 京都の景観にふさわしくないデザイン。
  • 観光ビルの上にタワーを乗っければ儲かるし観光的にもプラス、という拙劣・安易な発想。
  • コマーシャリズムによる宣伝行為。追随者が続出する危険。

 賛成、反対両派の典型的意見はざっとこのようなものである。そしてこの間にニュアンスの若干異なる方法論的見解がある。

  • 古都だからといってタワー自体は否定すべきものではない。
  • 敷地が京都駅の南の方であれば問題ない。
  • 建設経緯が不透明・卑怯・既成事実づくり。市民を無視しているのが問題。
  • 建築許可をだした市当局の責任こそ糾弾されるべき。
  • 要はデザインの問題である。


 一理あるものから、苦し紛れのようなもの、感傷的主張がいり乱れ、論点もまた、都市の近代化のあり方、タワーの意義、デザイン論からマス・ツーリズムの是非まで多岐にわたる。(但し設計者:山田・棚橋両氏による見解は、建設の以前も以後も公式には表明されていないことを注記したい[※補注2]。また、これだけ話題になったにもかかわらず、あるいはそれゆえに、建築雑誌はこぞってタワーの紹介を控えている)
 各々の意見を現代の視点から個々検証していくのは興味深い作業であるが、紙幅の事情で控える。ここでは、これらタワーをめぐる諸言説の構図・内容が、数年前に京都ホテル、京都駅ビルなどをめぐってなされた「景観論争」と、ほとんど合致しているという点を指摘するにとどめたい。


● AFTER 1964

 「京都タワー論争」の内容を具体的に見てみると、京都における「景観論争」はこの40年間ほとんど進歩していないようである。同様に近年の景観論争を振り返れば、まがりなりにも京都のあるべき姿が議論されていた「タワー論争」に比して、論点は「高さ」や「眺望」の問題へとむしろ単純化・矮小化されてきたとさえいえる。その背景には近代の都市計画理念に対する諦観や、一度建ったものが既成事実として容易に正当化されてしまう日本の風潮への失望があるように思われる。また好景気時には、開発に水を差すこの種の議論を避けていたという事情もあるだろう。
 だが、いずれにせよ京都にとっては先行きの暗い状況である。京都のあるべき姿についてのコンセンサス形成が遅々として進まぬ中、「古都・京都」という幻想だけが肥大化し、その陰で確実に都市は変質している。変質が悪いというのではない。幻想に包まれて、というあり方が問題であろう。
 奇しくも地上100mのタワー展望台からの眺めは、京都という都市の現実を何よりも明らかに提示する。一部の観光客や京都の人間がタワーを無視・忌避するのは、タワー自体への嫌悪というよりも、そこで自らの抱く「京都幻想」のベールが剥がされることを恐れるがゆえではないか、とさえ思われるほどだ。だとすれば、今こそ人々はタワーに登るべきである。そして自らの判断においてタワーの価値判断をせねばならない。壊すなら壊せばよい。残すのもまたよいが、「景観破壊の文化遺産として保存」などという問題の先送りは、この際許されるべきではない。
 京都タワーの評価を下すことができて初めて、京都は40年ぶりに、一歩前進することができるのだろうから[※補注3、4]。


※補注

1:『京都げのむno.2』、特集:京都売ります「PART1 鑑定・発掘!『問題物件』」、2002年。「問題物件」とは、その建設にあたって反対運動や是非を問う論争が起こるなど、社会的(あるいは京都的)に「問題」視された物件をいう(「問題」と括弧でくくっているのは、建設当初「問題」として騒がれた物件が完成後はほとんど無視されているなど、「問題」の実態がいま一つ不明瞭なためである)。京都げのむの特集では、京都タワー・京都ホテル・京都駅ビル・姉小路界隈の高層マンション・京都迎賓館等をとりあげた。

2:こちらのサイトによれば、山田守自身は「京都に新しい美を与えるもの」と主張していたという(時期・出典は不明)。

3:この記事を執筆したのが2002年ですが、その後2006年に「建築家山田守展」が開催され、書籍「建築家山田守作品集」が出版されました。また東海大・大宮司勝弘氏による研究成果が発表されています。詳細はチェックできていませんが、本記事が参考にした情報とは異なる事実が明らかになっていることもあるかもしれません。「京都タワー研究会(2005年〜)」のような活動も含め、近年では総じて、京都タワーを再評価・再検討しようという動きが増えているようです。今思えば、我々がやっていた『京都げのむ』の特集も、このような動きの一環として位置づけられるものだったのかもしれません。
近年公開された研究やウェブサイトを以下にまとめました。

4:筆者・柳沢の判断はどうなのか、という問いには答えねばなりません。
私の意見は基本的に、「無いほうがよい」、です。最大の理由は、京都は低層高密度都市としての特色を生かすべきで、高層は原則として無い方がよいと考えるからです。また、タワーや高層マンションなどの眺望を売りにする建築は、周囲がみな低層であることを前提になりたっているわけで、その「先にやったもん勝ち」の姿勢があまり好きではありません。

Tags: | ARTICLEs 小論 | 09.06.08

MENU

ARTICLEs 小論

Tags


Movable Type 3.36

apstars

RSS

..